先日、シンガポールで中餐(中国の友人が中華という表現を嫌う為)を食べた。
写真の様に冬瓜を丸ごと器にしたスープが出てきた。インパクトはあるが視覚的にどうだろう・・・
エビ、ホタテなどの魚介類とキノコが絶妙なスープを作り出している。周りの冬瓜を崩しながら口に入れると口の中にやさしい食感が広がる。美味い!!しかし、これでは一品目で満腹になってしまう。一人前という感覚は全くないのだ。
さて、次は京都で食べたランチの茶碗蒸し。
鶏のスープに枝豆、大根、みょうがの入ったあんがかけられており、中には銀杏、マツタケ、鶏肉etc・・卵の甘味がほのかに感じられる実に繊細な味だ。思わず「おかわり!」と言いたくなる。
それは湯呑程の陶器の器に入れられていた。しげしげと私が器をみていると、
「それ、マスターが焼いたんですよ!」
と店員が一言。マスターの方に視線をやると、私達のやり取りに気づいたらしく恥ずかしそうに頭を垂れた。
中餐と日本料理の違いを私なりに考えてみた。両者ともおもてなしの気持ちには変わりはない。しかし、強いていうなら中餐は「どうだ!」と言わんばかりの押しつけ感が否めない。(中国の友人に叱られそうだが・・・)日本の料理は、「気づいて頂けますか?」というような控え目さが感じられる。量の違いをとっても、中餐は「食べきれない」、日本食は「もう少し食べたい」という感じ。当然私は後者だが、それを選ぶ感覚も日本人ならではの物かもしれないですね。
以前、こんな事があった。
中国のお客さんを温泉に招待した時、エレベーター内のチラシの料理を見て
「本当にこんな料理がでるのか?」
夕食に並べられた御膳をみてびっくりしている様子。
よくよく話を聞くと、彼らが驚いたのはむしろ量よりも、料理によって使い分けられている器の数に驚いたようだ。
「中国の高級な店でも、これだけ華やかな器を使う店はない。確かにこうすると味覚以外でも料理を楽しめる。あなたが材木の木目幅にまでうるさいのがなぜか、少し理解出来ました。」
ベストセラーになった「国家の品格」にこんなくだりがありました。
「ふる池や 蛙飛び込む水の音」
この俳句を聞くと殆どの日本人が、一匹の蛙が古い池に飛び込み、水面に波紋が広がっていくような、静のイメージを思い浮かべます。しかし、他の国の人々の殆どが、たくさんの蛙が飛び込む騒がしい様子を思い浮かべるそうです。
やはり、私達には外国人には無い感性がDNAの中に組み込まれているようです。しかし、残念な事に最近ではどんどん失われていっています。いや、認めようとしないのかも・・・
文化の根本である 衣、食、住 。特に衣、住の部分は顕著にその傾向が表れています。住に携わる人間としてこの問題にどう向かい合っていけるのか考えてみようと思います。

